座る場所が少ない

世の中、座る場所が少ない。

 

出歩いてる時に何か思いついたこと(鏡の盾以外でメデューサを倒す方法など)があって、「あ、ちょっと書きとめとくために座りたい(何と言っても自分はアキレウスだから)」と思っても、座れる場所を探すことはなかなか容易ではない。人の多い街中にいる時などは、特に座れない。座りのVERY HARDモード。

無料で座れる駅や広場のベンチなどは、「すでに自分よりも先に座りたかった人」で埋め尽くされているし、コーヒーショップを利用しようとしても注文までの長蛇の列を見るだけで嫌気が差し、花壇のヘリなどに座ろうとすると「ここって過去に絶対誰かゲロ吐いてるよな」という思いが去来し、かといって「えいや」と路上に腰を下ろすのも気が引ける。

もし自分にそういうことをする自由が与えられるのであれば、都会のふとした路地裏の空間に、椅子を置いておきたい。そこでは誰もが腰をおろして思索する自由が与えられる。もちろん本を読むのだっていい。うっとりとTwitterを眺めるのもいい。飲食は椅子が汚れる気がするので禁止だ。極端に長居されても困るので、あまり座り心地の良すぎない椅子にする。

椅子を置いたら、「今日は座ってるかな~?」と時折様子を見に行く。人が座っていれば「うん、いいじゃん」と思い、座ってなければ懐から小さなブラシを取り出して、スッスッと椅子の上を軽く掃いてやる。そしていつかカップルがいちゃつきながら座っている(彼氏のヒザの上に女が乗っている)のを見て、こう言うのだ。

 

「やめなさい」(上ずった声で)

さけるチーズ問題

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「さけるチーズ」が裂ける時、そこには必ず人々の「チーズを裂きたい」という欲望が存在している。「さけるチーズ」は自発的に裂けるものではない。アクティブではなく、パッシブ。「冷蔵庫にさけるチーズを入れていたら、いつの間にか裂けていたんですよ……こんなことって……あるんですねぇ……」という稲垣淳二の恐怖夜話が存在しないように、「さけるチーズ」とは常に受動態だ。彼はこれ以上ないほど明確に、人の手によって「さかれているチーズ」なのだ。

 

では「さけるチーズ」を、「さかれているチーズ」と呼ぼう。

 

しかし「さかれているチーズ」は、この世に誕生したその瞬間から裂けているわけではない。むしろ「裂ける」という可能性を内包していることに、彼の価値は存在する。彼が最初から「さかれている」チーズだったとしたら、これほど愛される地位を築いてはこれなかっただろう。確かに彼はいつかどこかの瞬間で、「さかれる」という己の宿命に相対することになる。しかしそれは、我々が彼をスーパーの売り場で手にとる時ではない。言わば「さかれているチーズ」とは、「(これから)さかれるチーズ」、「さかれる宿命にあるチーズ」なのだ。

 

では「さかれているチーズ」を、新たに「さかれるチーズ」と呼ぶことにしよう。

 

いや待て。 彼には裂かれる以外の運命は用意されていないのだろうか? 「さかれるチーズ」に裂かれる宿命があることは確かだが、「裂く、裂かない」の選択の自由は、最終的には我々人間の手に委ねられている。我々には「さかれるチーズ」を、「さかずに」食べる自由が認められているのだ。運命を否定し、「さかれるチーズ」を裂かぬまま、丸ごとひと飲みにしてしまうようなダイナミズム。時に人生には、そのような劇的な場面が不可欠である。「さかれるチーズ」とは、裂かれる運命を背負いながら、その実、裂かれない可能性をも内包しているのだ。

 

結論を言えば、「さかれるチーズ」は「さかれうるチーズ」と呼ばれるべきである。我々の誰もがチーズを裂きえるし、チーズを裂かない未来を掴みとることもできる。「さけるチーズ」とは、我々がまだ選びとっていない未来の存在を教えてくれる“可能性”のチーズなのだ。