さけるチーズ問題

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「さけるチーズ」が裂ける時、そこには必ず人々の「チーズを裂きたい」という欲望が存在している。「さけるチーズ」は自発的に裂けるものではない。アクティブではなく、パッシブ。「冷蔵庫にさけるチーズを入れていたら、いつの間にか裂けていたんですよ……こんなことって……あるんですねぇ……」という稲垣淳二の恐怖夜話が存在しないように、「さけるチーズ」とは常に受動態だ。彼はこれ以上ないほど明確に、人の手によって「さかれているチーズ」なのだ。

 

では「さけるチーズ」を、「さかれているチーズ」と呼ぼう。

 

しかし「さかれているチーズ」は、この世に誕生したその瞬間から裂けているわけではない。むしろ「裂ける」という可能性を内包していることに、彼の価値は存在する。彼が最初から「さかれている」チーズだったとしたら、これほど愛される地位を築いてはこれなかっただろう。確かに彼はいつかどこかの瞬間で、「さかれる」という己の宿命に相対することになる。しかしそれは、我々が彼をスーパーの売り場で手にとる時ではない。言わば「さかれているチーズ」とは、「(これから)さかれるチーズ」、「さかれる宿命にあるチーズ」なのだ。

 

では「さかれているチーズ」を、新たに「さかれるチーズ」と呼ぶことにしよう。

 

いや待て。 彼には裂かれる以外の運命は用意されていないのだろうか? 「さかれるチーズ」に裂かれる宿命があることは確かだが、「裂く、裂かない」の選択の自由は、最終的には我々人間の手に委ねられている。我々には「さかれるチーズ」を、「さかずに」食べる自由が認められているのだ。運命を否定し、「さかれるチーズ」を裂かぬまま、丸ごとひと飲みにしてしまうようなダイナミズム。時に人生には、そのような劇的な場面が不可欠である。「さかれるチーズ」とは、裂かれる運命を背負いながら、その実、裂かれない可能性をも内包しているのだ。

 

結論を言えば、「さかれるチーズ」は「さかれうるチーズ」と呼ばれるべきである。我々の誰もがチーズを裂きえるし、チーズを裂かない未来を掴みとることもできる。「さけるチーズ」とは、我々がまだ選びとっていない未来の存在を教えてくれる“可能性”のチーズなのだ。